最近、思いやりをもっと持ちたいな!と思います。思えば思う程、思いやりが、足りないことに気付かされます。
そんな時、私の好きな詩集を開きました。
「木の前にいる私」
自分は生かされている、と感じたことがあるでしょうか。自然を自分の前に立っている木と考えれば人は-生かされている-ことに気づくはずなのです。
たとえば、砂漠に一本の木があるとします。そこに疲れきった旅人が通りかかります。もうろうとした目で、彼は一本の木を見つけます。そして「木の前にいる自分」を知るのです。彼は木の陰に身を横たえ、暑さから身を守ることができたのです。
きっと彼は、「木の前にいる自分」を知り、「私はこの木のおかげで生き延びられた」と思うことでしょう。彼は「私のそばにある木」ではなく、「木の陰の中にいる私」を発見することになるからです。
「私の前にある花」ではなく「花の前にいる私」、「私の前にあるリンゴ」ではなく「リンゴの前にいる私」、「人に話している私」ではなく「私の話を聞いてくれる人」、「私の前を吹き抜ける風」ではなく「吹き抜ける風の中にいる私」、「私の前にある神」ではなく「神の前にいる私」・・・・
と常に自分の身を置く場所を知っている人だけが、ものの優しさも、人の情けも、自然の恵みも、神の姿も見えてくるのです。そして、自分が生かされていることがわかるのです。それを知る人は、生命の大切さも、生きる喜びもわかるものです。
死ぬ時でさえ穏やかな顔をして、人生のすべてに感謝できるでしょう。それに対して、自分の力だけで生きてきたと思っている人は、どうしてこんなことで死ななければいけないんだと思いながら、悲痛な表情で死を迎えるかもしれません。それは日々の生活ののこまかなところにも、見ることができるような気がします。
たとえば、生かされてきたと思っている人は、恋に破れても、愛する人に出逢えただけで、喜びを得ることができますが、自分だけで生きてきたとと思う人は、ちょっとしたトラブルで後悔し、何についても嘆いてばかりいるものです。
自分の心の置き場所を知ることは、人生のすべてを愛せる大きなきっかけにねるのです。
※この詩を広げる前に、思いやりを、もっと持つには、何をすれば良いのだろう。何ができるのだろう?と考えていました。
木の前にいる自分を意識して生きることが、今出来ることと思いました。